なんども壁ドン
ある日のAM2:00。
静かな夜を突き破るように、「ドンッ!」という鈍い音で目が覚めた。
最初は夢かと思ったけど、続けてもう一発、「ドンッ!」。
完全に現実の音だ。
何事かと飛び起き、リビングへと下りる。
すると親父殿がトイレに起きてきたようだった。
一瞬、もしかして転んだのかと思ったけれど、それにしては何かおかしい。
「ドンッ!」
音の出どころを探して廊下に向かうと、親父殿がトイレ前の壁を掌で叩いていた。
「ちょっと!壁を叩いたらだめだよ!」
そう言うと、親父殿は振り返り、ムッとした顔でこう言った。
「こいつが悪いんだ!だからびっくりさせてやったんだ!」
指さす先は---何もないただの壁。
ただリビングから漏れる灯りが作った親父殿自身の影が、そこに映っているだけだった。
ここ最近、鏡や窓、テレビの画面など、反射するものにはすべて対策をしてきた。
それでも、ついに「自分の影」にまで「知らないヤツがいる」と言いだしてしまった。
たしかに、我が家では夜間もリビングのダウンライトを点けたままにしている。
理由は、夜中に親父殿が起きたときに照明のスイッチが分からず家具にぶつかったり転倒したりするのを防ぐため。
安全のための灯りだったはずが、いまは「知らないヤツ」をつくり出してしまっている。
とはいえ、灯りを完全に消してしまえばそれこそ転倒の危険が高くなる。
なにより照明が点けられず、真っ暗な家の中を不安そうに歩く親父殿の姿は見ていてこちらがつらくなる。
考えた末、リビングと廊下のダウンライトをすべてフロスト加工されたものに変更。
さらに、リビングのシーリングライトを調光可能なタイプに変更した。
このふたつで、親父殿の影はかなりぼやけて見えるようになった。
もちろん完全に影をなくすことはできないが、少なくとも“知らないヤツ”と思われることはなくなった。
それでも毎晩どこかしらの壁を叩く。
そのたびにどこの光源が影をつくっているのかを考え、キッチンの照明、階段の照明と対策を重ねた。
一週間もしないうちに親父殿は壁を叩かなくなった。
---わたしの完全勝利だ。
認知症との暮らしは、予期しない出来事の連続だ。
昨日は平気だったことが、今日は混乱の引き金になる。
だからこそ、「家の中を少しずつチューニングしていく」ことがとても大切。
今日も親父殿は、静かな夜の中を、なにごともなく通り過ぎてくれた。
わたしも、しばらくはぐっすり眠れそうだ。